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【2021.8月号】平和の夏、核兵器禁止条約の歴史的意義を考える

 本年1月、原爆投下から75年を経て核兵器禁止条約が発効した。国民の中には、核保有国が批准しないこの条約の実効性について疑問を持つ意見もあるが、国際法の持つ意義の大きさは生物化学(BC)兵器の歴史を見れば明確である。
 核兵器禁止に先駆ける残虐兵器の一つである生物・化学兵器の使用禁止の国際法は1925年のジュネーブ議定書に遡る。当時の日本は当初署名したものの批准せず、1931年からの十五年戦争中に731部隊等で中国に対し細菌兵器や化学毒兵器を実戦使用したことはご承知のとおりである。
 使用のみの禁止であったジュネーブ議定書に代わり、製造から貯蔵まで禁止する1975年発効の生物兵器禁止条約については、当初署名をしたものの批准は7年後の1982年であった。1992年に国連軍縮会議で採択された化学兵器禁止条約もわが国の批准はオウム真理教によるサリン事件後の1995年になった。
ここで、核兵器禁止条約の成立に至るこれまでの国際世論の形成はどのようなものであったか、その長い道のりを振り返っておきたい。
 1946年1月の国際連合総会の第一号決議は、第二次大戦の反省の上に立って核兵器を含む軍縮の必要性、国際的取組を提起したものであったが、米ソの対立の中で具体的な中身のないものであった。そして米ソ間の果てしない疑心暗鬼の結果としての核開発競争がはじまった。
 1952年11月にマーシャル諸島のエニウェトク環礁で米国が秘密裏に史上初の水爆実験(10~12Mt)を行ったが、翌53年8月には旧ソ連も秘密裏に水爆実験を行い、これに米国が対抗する形で1954年3月にビキニ環礁でブラボー実験(15Mt)を行い、第五福竜丸の被ばくが全世界に知れ渡ることになった。
 このブラボーが水爆実験だという真相を西欧の科学者たちに知らせたのが、3月15日の夜に焼津に来て調査した大阪市大医学部放射線物理教室の西脇安・助教授(のち東京工業大学教授)である。西脇氏の欧州訪問でもたらされた正確な情報は、翌1955年7月に人類絶滅の危機を訴えて科学者の会議を呼びかけたラッセル・アインシュタイン宣言という歴史的文書に結実した。そして湯川秀樹や朝永振一郎らも参加したパグウオッシュ会議の運動が始まった。まさに、ビキニでの第5福竜丸の被ばくの真相から、国内の原水爆禁止運動と同時に国際的な科学者の反核運動がスタートした。
 その後核軍縮を求める動きは1963年8月の部分的核実験停止条約を経て1968年7月の核兵器不拡散条約(NPT)(発効は1970年3月)へと進展したが、その後の事態は核廃絶どころか核拡散、核弾頭の増産に向かった。
 核保有国のサボタージュで一向に核軍縮への道が開けない事態に一石を投じたのが1975年8月の湯川・朝永宣言「核抑止を超えて」であった。「核抑止論」がいかに危険極まりないものかを説いたこの宣言には、内外の多数の科学者たちも支持を表明した。
 湯川・朝永宣言の10年後、レーガン・ゴルバチョフ会談などを経て米ソ間の中距離核戦力全廃条約締結など光が見えたかに思えたが、1996年9月の地下核実験をも禁止する包括的核実験禁止条約(CTBT)は、米、ロなど核保有国の批准拒否で未発効のままである。
 その後、日本の被爆者団体をはじめ、各国の市民運動組織、国内外165カ国8019自治体加盟の平和首長会議など宗教や政治的立場を超えた粘り強い核廃絶運動が続けられた。
核戦争防止国際医師会議(IPPNW、1985年ノーベル平和賞受賞)を母体として2007年にウィーンで発足したICANが国際NGOの結集を図り、核兵器禁止条約実現のために貢献したことは、ノーベル平和賞の受賞で評価された。
 核兵器禁止条約には、これまでの核軍縮条約にはない特徴がいくつもあるが、そのうちの3点を取り上げたい。
 第一は、前文に散りばめられた「humanitarian」「humanity」「human」などの言葉が力強く、核実験被害者を含むヒバクシャの存在を反映した他に類を見ない国際人道法となっている。
 第二に、第1条で、締約国は核の使用だけでなく、核による威嚇も禁じられている。これは核抑止論を根底で否定したものであり、湯川・朝永宣言の具現化である。
 第三に、第6条や第7条で、締約国には核被害者(ヒバクシャ)に対する医療の提供などの支援、援助及び環境の回復を義務付けている。
 日本政府による核抑止論=「核の傘」からの脱却を図り、一日も早い条約の批准を実現したいと思う。